楽器のフックが足りなくて、ちょっとまだ背景が寂しい(笑)、今日のステージ回りです。オープンまでにはフックも間に合う予定ですが、こんどは並べる楽器が足りなくて、やっぱり寂しいままかもしれません。
ところでこんどはメールでご意見を頂戴しましたので、ワタクシなりの回答を、ここに掲載させていただきます。
blogのメインページの、左のメニューバーのなかに“MAIL to BOTCHY BOTCHY”というのがあって、メールフォームからワタクシにメッセージを送れるようになっています。ご意見やご質問などがありましたら、遠慮なくメッセージをお送りください。
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「唄わない人に1500円の入場料をとるのは、不都合だと思いますが。
音楽を歌うのは楽しいものですから、そこに比重をかけるべきです。美味しいお酒、フード、そして音楽を共に語り聴くという行為は、「フリー」であるべきです。ですから歌う人には、1500円と大きく表示した方がいいとおもいますが・・・。
かっていってスイマセン。」
A.実はこの点は、ワタクシも、いちばん悩んでいるポイントです。2007年08月20日のエントリーにも書きましたが、いろんな店にいろんなシステムがあるけど、どれも一長一短があり、そもそもすべての人を満足させることは不可能です。そしてBOTCHY BOTCHYにどういうシステムがいいのかは、やってみないとわかりません。
料金やメニュー、そしてサービスのシステムなど、お店のいろんなことを当面は試行錯誤をさせていただくことになるかもしれませんし、だから、もしかしたら真っ先にここの部分を変えるかもしれませんが、現時点では、BOTCHY BOTCHYは唄う人にも聞くだけの人にも、等しく入場料を負担していただこうと思っています。
唄うことを代価にすると、じゃ、10曲唄った人と1曲しか唄ってない人は同じ料金なのか? とか、客席で一緒に唄ってる人はタダなのか? とか、どの時点で入場料をカウントするのか? とか、こんどは代価そのものの問題も出てくるでしょう。唄わないはずだったのに引っ張り出されちゃったら、その代価は誰が払うのかとか、今日は“唄わない人”で入場したので唄うのをガマンする(笑)とか、へんちくりんな問題も出てきちゃいそうです。
それにしても、これは難しい問題です。
・唄わない人から、音楽のお金をもらっていいものか?
・唄わない人は、タダであるべきなのか?
・唄うことはお金払う価値があり、聞くことは価値がないのか?
・唄う人からお金をもらうということはカラオケと同じか?
・カラオケは、唄わない人にとって無価値なのか?
・唄うのは楽しくて(上位)、聞くのはつまらない(下位)のか?
・その音楽は、お金を払ってまで聞く価値があるものか?
・お金を払って聞く価値のある音楽とはどういうものか?
・聞いてお金を払うのは、相手がプロであるからなのか?
・お金を払って聞きたいのは、結局、好きか嫌いかではないか?
・ほかにも…………
・いろいろ…………
・あれこれ…………
ただ、BOTCHY BOTCHYはライブハウスではありません。ライブハウスなら、中にいる人はミュージシャンと聴衆に分かれてたりするわけですが、BOTCHY BOTCHYにいるお客さまはみんなアマチュアで、唄にお金を払う価値がある人は、そもそもあんまりいないでしょう。だからお客さまを“唄う人”と“唄わない人”に分類するのは無理があるように思っています。“ミュージックチャージ”ではなく“入場料”としたのも、そういう理由からです。たとえば宴会の二次会がカラオケBOXで行われて、唄うヤツは唄ってて、聞くヤツは聞いてて、話すヤツは話してて、それでカラオケのための場所代も音楽費用も割り勘で徴集されてる、というのに似てるのかもしれません。
唄わない人から入場料を取らない、という方法は、実は店の集客的には利点があります。たとえば唄わない人がタダなら、おいしいハンバーグは食べたいけど音楽にカネ払いたくない、という人にも来てもらえるでしょう。でも、ワタクシがBOTCHY BOTCHYで美味しいハンバーグを出したいと思ったのは、こういう楽しい音楽の店で、なおかつメシもオイシイ店を作りたかったからなんです。“音楽は楽しいメシもうまい”店を作りたかったから、だからハンバーグにもこだわっているのです。そこのオヤジ、下手な歌なんかやめろ、おいしいハンバーグがまずくなるぞ、なんて食べながら思われちゃったら、ワタクシ的には本末転倒なのでした。(^^;;
そんなわけで、なにひとつ結論は出せていないわけですが、いまさらワタクシなんぞに言われるまでもなく、人の好みや価値観は千差万別だし、音楽にはいろんな楽しみ方があるわけです。で、このBOTCHY BOTCHYという小さな空間では、唄うのも楽しい、聞くのも楽しい、そして、そんな楽しい空間に、みんなと一緒にいることが楽しい、と、そんなことを夢見ているのです。ちょっと現実離れした夢かもしれませんが、そこでは上手い人も下手くそな人も、聞く人も話す人も、みんな等価なのです。